午前五時の殺風景

ミステリとホラーを好む社会人。音楽もたまに。日々言葉が死んでいく。

名探偵のいけにえ 考察

ライブ前に大きい仕事の予定が入りバチギレしている。

『名探偵のいけにえ』で起こったことについて、今度は真面目に考察したいと思います。例によってネタバレ有ります
そして今回は、若干『名探偵のはらわた』のネタバレも含みます。ご了承ください。

前に書いたこの記事とは別になります。
名探偵のいけにえ 感想 - 午前五時の殺風景

未読の方は、はらわた&いけにえを読んでからお進みください。
絶対に読んでください。
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稀代の毒殺魔も、三十人殺しも。名探偵vs.歴史的殺人犯の宴、開幕。推理の果ては、生か死か――。悪夢が甦る――。日本犯罪史に残る最凶殺人鬼たちが、また殺戮を繰り返し始めたら。新たな悲劇を止められるのはそう、名探偵だけ! 善悪を超越した推理の力を武器に、「七人の鬼」の正体を暴き、世界から滅ぼすべし! 美しい奇想と端正な論理そして破格の感動。覚醒した鬼才が贈る、豪華絢爛な三重奏。このカタルシスは癖になる!

病気も怪我も存在せず、失われた四肢さえ蘇る、奇蹟の楽園ジョーデンタウン。調査に赴いたまま戻らない助手を心配して教団の本拠地に乗り込んだ探偵・大塒は、次々と不審な死に遭遇する。奇蹟を信じる人々に、現実世界のロジックは通用するのか?
圧巻の解決編一五〇ページ!
特殊条件、多重解決推理の最前線!

ネタバレ始めます。

真実とは何だったのか?

先程「起こったこと」とぼかして書いたけれど、私が気になったのは「何が真実だったのか?」ということ。これについて考察していきたい。
フォロワーさんや知人と話しているうちに気がついたこともあれば、Twitterで感想を漁り気付かされたこともある。全てが私の自力で作り上げられたものではないので、ご了承いただきたい。


この事件では、二つの推理が提示されていた。
信仰者の視点の推理と、余所者の視点の推理だ。
大塒はこの二つの推理を発表したわけだが、その真偽はジョーデンに託している。
では、どちらが真実だったのか? 
そもそも真実はあったのか?

前提

まず、奇蹟はある、ということは前提としておきたい。
というのも『名探偵のはらわた』では、死者の魂が生者に乗り移るという奇異なことが起こっており、これは奇蹟だ。はらわたといけにえが世界観を共有して描かれている姉妹編である以上、この世界には常識では考えられない奇蹟というものが存在する。
そのため『その宗教を信仰している人は、自分達の怪我を認識できなくなる』という特殊条件は発動し得る。

※しかし、この特殊条件が厳密にどの段階から生じるかは疑問である。
ジョーデンタウンに足を踏み入れたとしても、大塒やりり子には発動していない。
ジョーデンタウンに住み、宗教への猜疑心が芽生えているルイズ・レズナーには発動したままだ。
おそらく「信仰している」というより「ジョーデンの力を信じている」者に発動すると捉えた方がいいだろう。

更にこれは読者だからこそのメタ的思考だが、いけにえでは信仰者の視点で物語が描かれているシーンがある。例えばP136とP214。
彼らは確かに自身の病気が治ったと感じているし、他者の病気も存在しないように認識をしている。

よって、奇蹟は存在する。
この前提に立って、二つの推理を見ていこう。

余所者の視点の推理

小説内の順番とは異なってしまうが、余所者の視点の推理から考えてみる。

これを成り立たせるためには、Wが自分のことを「子供体型だ」と認識している必要がある。そうでなければ第二の殺人ができなくなってしまう。小窓を通る必要があるからだ。(これはTwitterで鋭いツッコミをしている方がいて気がついた。ありがとうございます。)

しかし、我々は奇蹟が存在することを知っている。
Wが信者であれば、この犯罪をできたはずがない。

しかしここで問題になるのが、Wが本当に信者なのかというところ。(これはフォロワーさんに指摘されて気がつきました。ありがとうございます。)
というのも、先ほども述べたが洗脳の発動条件が分からないため、Wにもそれが適応されている確証がないのだ。
もしかしたら、心の中ではジョーデンを全く信じていないのかもしれない。その胸の内は語られることがなかったので、わからずじまいだ。

ただ、W=校長先生という図式は変わらない。
これは、登場人物一覧にWの名前がないことから明らかである。同じ人物を二回書くわけにいかないし、登場人物一覧に名前がない人物を犯人とするのは御法度なので。

また、名探偵であるりり子もP242で

彼が一連の事件の犯人です。

と言っている。余所者から見た事件は、どう見ても校長が犯人なのだ。りり子が言うのだから間違いない。(と言うことにしておく。)

つまりこの推理は、限りなく成り立っているように感じるが、洗脳の発動条件が不明瞭なために真偽が定かではなくなってしまっている。

信仰者の視点の推理

では信仰者の推理はどうか?

こちらは明確な反論ができなかった。(できた方がいたら教えてほしい。)

動機の面で考えても、序盤に

自責の念がないと言えば嘘になる。

自分は信仰を守り抜いたのだ。

とある。この気持ちを考えると、大塒が語った推理の動機とも一致すると考えられる。

結論は?

これがこの物語のキーになるところだと思うのだが、二つのうちどちらかが正解とは限らない。

これは詐欺師の手法だ。

あえて二つの選択肢を与えることで、ジムがどちらかを選ばなければならないかのように錯覚させているのだ。

とあるように、全く別の解が存在する可能性もある。
ただそれであれば、ここまで組織を拡大化した教祖様が二択から選び取るとは考えづらい。
詐欺師の術に引っ掛かってしまうような人だったのだろうか?
これも本文に書いてあるが「私は殺していないし奇蹟は存在する」と言う手もあったのだ。名探偵が提示したもの以外に解が存在しないなんて、そんなの悪魔の証明なのだから、なんとでも言い逃れられたはずだ。

しかしこれも、ジムの性格や頭脳がどの程度なのかわからないため議論したところで結論は出ない。

というわけで、ここまで来て私はやっと「答えを出さないことがやりたかったのかもしれない」と納得することができた。

白井智之本人としては、後期クイーン問題に挑むという大きな野望はなかったのかもしれない。
ただ純粋に、事実がなんであろうがロジックが勝つ様子を描きたかったのかもしれない。
もしくは、物語上このオチが一番美しいと思ったからかもしれない。

その意図は計り知れないが、webサイトに上がっている本人の裏話を読む限り、これが白井智之にとっての推理・論理の理想系だったのだろう。
そう思うと、色々と感慨深いものがある。
白井智之 Shirai Tomoyuki

気になる点

P217のところだけ、どうもW=校長先生という図式が破綻しているように読めてしまう。
何かのトリックなのだろうか…。

心に留めていただきたいこと

世の中は理不尽なことが多い。
もしかしたら、コロナ禍で特に、理屈が通じない人々が山ほどいることに気付いた人もいるだろう。

しかし、どんな状況下でもロジックで相手をねじ伏せる白井智之作品には、生きていく上で見習わなければいけない心意気があると思う。

論理は剣よりも強し

これははらわたの帯に書かれていた言葉だが、何か皆さんが理不尽に立ち向かわねばならぬ時、白井作品の非日常さを少しでも救いにして生きていただければと思う。

そう文字を大にして書いて、この記事を終わる。